「宇宙の外には何があるんでしょうか?」
「お前、そんなこと考えてもしょうがないぞ(笑)」
「でも、先生、宇宙は無限なんですよね?無限ということは終わりが無いのだから外も無いんじゃないかと考えるとわけがわからないです!」
「まあ、俺もそんなようなこと考えたこともあったけど結局わからなかったよ(笑)」
中学生のある日、私はよほどボケーっとした顔をしていたのでしょうか。
先生が私に「お前、何か考えてるのか?」と尋ねてきたときの会話です。
このとき、私は純粋に好奇心にひたってゆらめき、そして、ときめいていたのかもしれません。
さて、「子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力」(イアン・レズリー、須川綾子訳、光文社、2022年)の「はじめに」をざっと読みました。
面白いな、続きを読みたいな、と感じました。
ただ、別の感覚もありました。
「人は好奇心を持たなくてはならない」
「好奇心がある人は幸せだが、好奇心を失った人は不幸せである」
まるでそんな風に脅かされ、あたかも好奇心を強制されているような焦りと不安と少々の反感といえば伝わるでしょうか。
私はチョコレートが好きですが、同時に、人から何かの行動を強制されていると感じることは好きではありません。
ですから、空腹であっても、「チョコレートを食べなさい」と言われたらチョコレートへの好きさを、命令への反発心が打ち消して、チョコレートを食べないと決心する可能性があります。
エスカレーターに「走るな」とか「逆走禁止」と警告が書いてあることがあります。
その警告を見ると、逆に走りたくなったり、逆走して基本的人権を主張してみたくなったりするタイプの人が世の中には一定数いるのではないでしょうか。
さて、「子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力」の「はじめに」を読んで「あたかも好奇心を強制されているような焦りと不安と少々の反感」を感じたと書きました。
なぜそんな感想をいだいたのでしょうか。
はじめにのタイトルが「『知りたい』という欲求が人生と社会を変える」です。
最初のサブタイトルは「言葉を操る天才子ザルが『質問しない」こと」です。
ところで「危険な『好奇心格差』が生まれつつある」というサブタイトルがあったのです。
「好奇心旺盛な人々と無関心な人々のあいだに大きな溝が生じているのだ」という一節があったのです。
私は疲れてしまい、ふとんにもぐりこみました。
「ああ、癒される!」
さあ、はじめましょう、快適なベッドとふとんのある暮らし。
できればここにベッドかふとんかまくらか何かのインターネット広告を貼って人生100年を加速するお小遣いをかせぎたいと思います。
しかし、これで、終わってしまうと、書評でなくベッドやふとんの魅力をアピールしているだけになってしまうので、この本のよいところも書いておきます。
赤ちゃんが母親を見つめながら何かを指さすのは、あれは何か教えてと訴えかけているのだ、と著者は言います。好奇心がふくらむかしぼんでしまうかは周囲の人々にかかっている、赤ちゃんは母親が問いかけに応じてくれたらまた他のものを指さすだろう、無視されれば問いかけるのをやめてしまう、と著者は続けます。
そして、著者イアン・レズリーはこんな決め台詞でこの段落を結びます(36ページ)。
「好奇心は人から人へと伝わる。無関心もまた同じである」
最近はスマホでもパソコンでもタブレットでも音声読み上げ機能が充実しています。
ベッドやふとんの中で文章を読むと、目が悪くなると注意された気がします。
懐かしいことです。
カセットテープやCD全盛時代には、人間の声優や著者自身による朗読カセットテープや朗読CDというのがあった記憶があります。
今も図書館に行けば、朗読CDはおいてありますが、21世紀スマホ時代からAI時代にさしかかり、合成音声による読み上げが増えています。
何かの宣伝で「聴く読書」というキャッチコピーがありましたが、50年後100年後にはいったいどうなっているのでしょうか。
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